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わが心の天心

→ わが心の天心-1 1993年10月ボストン

→ わが心の天心-2 1863年2月横浜-1

→ わが心の天心-3 1863年2月横浜−2

→ わが心の天心-4 1994年1月 ボストン

→ わが心の天心-5 1905年ボストン

→ わが心の天心-6 1415年 京都

→ わが心の天心-7 1424年 朝鮮

→ わが心の天心-8 1946年 奈良

→ わが心の天心-9 1890年 東京new

わが心の天心-1 Tenshin on my mind

■1993年10月ボストン

 1993年10月。私はボストン=ローガン空港に降り立ちました。その後幾度となく訪れたこの街。しかし、ボストンはそれまでに何度も訪れていたニューヨークに比べて、私にとっては親しみのある街ではありませんでした。マーケティングのプランニング事務所を生業とする私にとって、1980年代のニューヨークは極めて刺激的な都市でした。コッチ(Edward Irving Koch, 1924年 〜 )市政下のニューヨークは、今(2008)のニューヨークからすると想像もつかないほどデインジャラスでエキサイティングでヤバイ雰囲気に満ち満ちていた。しかしそこは極めて創造的で刺激的な空間だったと思います。マイルス・デイビスはまだ現役だったし、往年のジャズ・ミュージシャンがナイト・スポットに出演し、ビレッジ・ゲートの月曜日はサルサ・ディでティト・プエンテのティンパレスが炸裂していたました。ファット・チューズデイでは取り巻きを引き連れた白い背広の眼の鋭い黒人とすれ違い、客席に入ると「いま、ここにマイルスが来てたんだよ!」と興奮した観客が叫んでいた。ほとんどがビジネスでしたがニューヨークに入り浸った数年を経て、私の足は、ようやくボストンに向かいました。もちろんビジネスを携えての訪問でしたが、私にはもう一つの目的がありました。それはフェンウェイ・コートの奥方の館、イザベル・ステュワート・ガードナー美術館を見に行くためでした。往時ももちろんそうでしたが、フェンウェイ・パークはイザベル・ステュワート・ガードナー美術館の存在より遥かに、ボール・パーク、あのグリーン・モンスターを擁するレッド・ソックスのホーム・スタジアムの所在地として有名です。1904年。私がフェンウェイ・コートを訪問する約90年前、1人の長身の日本人がフェンウェイ・コートの奥方の館を訪れました。 彼をフェンウェイ・コートに誘ったのは米国人の画家ジョン・ラファージでした。その男は流暢な英語と、神秘的な佇まい。そしてその洗練された会話と博識によってイザベル・ステュワート・ガードナーの心を奪ったのです。天心岡倉覚三こそその人でありました。天心に関する五十数編の考察をコンピュータ・ウィルスのために失って(ほぼ同量の南方熊楠に関する原稿も同時にウィルスの餌食になった)、しばらくの間私は天心や熊楠に関する論考を書くエネルギーを失ってしまいました。それは原稿のリカバリーを怠った私の怠慢の結果でありましたが、予想以上に打撃は大きかった。いつまでも自己の過失が悔やまれ、それが桎梏となってしまいました。今、もう一度、私の中にある天心を書き記すエネルギーを与えてくれたのは、米国の比較文学者Christopher Benfeyの著作”The Great Wave”と私事ながら私の娘である三宅綾が作ってくれたこのウェブ・サイトです。今一度『茶の本』を初めて読んだ十代のころから四十年にわたる「わが心の天心」とのお付き合いを辿りなおしてみたいと思います。岡倉天心については、本人の思想のありどころとは関係なく、第二次世界大戦中における軍部の天心利用の影響が、戦後必要以上の誤解を惹起し、天心に関する公平な研究の妨げになってきました。戦後六十年を経てようやく、天心に関する本来の研究の成果が多く現れていることは大いに歓迎すべきことであると思います。

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わが心の天心-2 Tenshin on my mind

■1863年2月横浜-1

 古来偉人天才英傑の出自は謎めいているか、絢爛たる物語に仕立て上げられている場合が少なくありません。その命名の由来なども賑々しいことが多いわけです。天心岡倉覚三の出生と命名の由来は、切っても切り離せないものがあるのですが、しかしそれは偉人天才英傑のものというには、あまりに簡素で合理的なものであります。それは天心が偉人天才英傑ではないことの証明とは考えにくく、おそらくそれは1863年2月(文久2年12月)横浜という天心生誕の時と場所のもたらした所以であると思われます。

 天心の生誕および命名のことは、天心の長男岡倉一雄による天心の伝記である「父岡倉天心」の記述を、その後現れた評伝や研究書のほぼ全てが踏襲しています。「父岡倉天心」は1939年の刊行ですから、天心の死後26年を経ています。この時すでに数冊の天心の評伝は存在していましたが、親族による評伝ということともあり、「父岡倉天心」には多くの親族からの伝聞が含まれているのが特徴です。尚「父岡倉天心」は、1939年の刊行時には「父天心」という表題でしたが、1971年に孫の岡倉古志郎による復刻の際に「父岡倉天心」と改められたものです。以下「父岡倉天心」から、天心の生誕と命名の由来の部分を引用してみます。

 「堂々たる店構えの石川屋に付随していた幾棟かの土蔵のうち、その一棟は角蔵であり、その階下と階上とに畳を敷きならべ、家族の者が別座敷の用に供していた。とかく年を重ねるうち、濃畑氏(天心の母:高橋註)がふたたび身ごもって、その年の歳暮もいよいよ押しつまり、商人としてはもっとも忙しく、猫の手もかりたいほどの十二月下旬にいたると、分娩の兆候があった。で、彼女はかねてそこと定めておいた角蔵のうちに退き、そこをみずからの産室にした。やがて大晦日を数日にした二十六日の暁天、安らかに男児を分娩したのであった。嬰児は、さすがに横浜の三大女の一人に数えられたほどの濃畑氏の血をうけただけに、異常な体躯に恵まれ、しかもまるまると肥っていた。父勘右衛門は、長男(天心の異母兄:高橋註)の病弱に引きかえて、かかる堂々たる男児をもうけたものだから、狂喜おのずから禁じがたく年末繁忙の間にも、七夜の祝儀の設けなどに、いたく心を労していた。しかし、七夜における命名は、いとも無造作に角蔵とつけられた。それは生まれた場所が角の蔵であったためであろう。これが、後の私の亡父天心なのである。天心は、角蔵という文字がすこぶる平俗に失するのを忌み、後にみずから覚三と称するにいたったが、これは物心ついてはるかに後のことである」

 以上が天心岡倉覚三の生誕と命名にまつわる伝聞です。天心の父勘右衛門は下級の福井藩士でしたが、藩命により商人となって横浜に石川屋と称する商家を営み、先妻に先立たれた後の妻濃畑氏との間に、角蔵こと天心岡倉覚三が生まれたのでした。

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わが心の天心-3 Tenshin on my mind

■1863年2月横浜−2

 歴史の不思議は、その時代に必要とされる人物が、物語以上の豊穣な文脈を持って登場してくることです。ある歴史上の人物が、おそらくその人物以外の誰もがなしえないような事を、あたかもその人物の存在が予定されていたが如くに為してしまう。多くの歴史的な局面で、この人物以外にありえないという設定の中で、その人物は歴史的行為を平然として行なってしまうのです。それを偶然というべきか必然というべきか、いずれにしろ事実は小説より奇である場合が多いようです。

 1863年の横浜は、当時の日本の中では特殊な場所であったことはいうまでもありません。既に5年前に開港されていた横浜には多くの外国人が住んでいました。そして、外国人と日本人の間に様々なトラブルが発生していました。そうしたトラブルの中でも後世に残る大事件が天心生誕の半年前、1862年9月14日に起こっています。世に言う生麦事件です。島津侯の大名行列の前を横切った外国人を薩摩藩士が殺害したこの事件は、当時しばしば起こっていた外国人殺傷事件の中でも、その結末の悲惨さからいっても、その後の歴史的展開への影響力においても最大のものでした。この事件は尾を引き、天心生誕の年1863年には薩英戦争が勃発しています。

 世の中には尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていましたが、横浜には西欧の波が確実に打ち寄せていたのです。天心が生まれた翌年、一人のノルウェー系アメリカ人が横浜港に上陸しました。彼の名はウイリアム・コープランド。1870年横浜の天沼に日本最初のビール工場スプリングバレー・ブルワリーを開業した男です。「天沼ビア酒」などのビールを発売したスプリングバレー・ブルワリーは、生麦事件の現場からそれほど遠くない場所にありました。スプリングバレー・ブルワリーは紆余曲折を経て後のキリンビールに発展していったのです。

 1863年時点の横浜は、ある意味では西欧の居留地の様相を呈していたわけで、その地に生を受けた岡倉覚三にとって西欧人は珍しい存在ではなく、英語は日本語と共に幼い頃から日常的に聞こえてくる言語でありました。こうした生誕の地の立地的な背景は、後に岡倉覚三が世界に羽ばたいて行く素地をつくったといえるでしょう。彼のずば抜けた英語力は後にアーネスト・フェノロサとの出会いを準備するものであり、そのフェノロサとの日本美術の研究や日本の近代美術教育の礎となる海外視察に大きな役割を果たします。

 そればかりではなく、晩年のボストン美術館での活躍や、インドにおける独立運動への影響など、岡倉覚三を特徴づける様々な活動に1863年の横浜の背景が影を落としているのです。名著「茶の本」を初めとする岡倉覚三の主著4冊はすべてその原本は英語で執筆されているのも同様の状況がもたらした必然といえるかも知れません。そして「天心なくして近代日本における日本美術および日本美術史はない」といわれる岡倉覚三の近代日本美術および日本美術史に関する偉大な貢献も、1863年の横浜がその素地となっているということが出来ると思います。

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わが心の天心-4 Tenshin on my mind

■1994年1月 ボストン

 1994年1月に2回目のボストン訪問。この年の北米は大豪雪。シカゴからのトランジットは大混乱で、ボストンが閉鎖されていたので、ニューヨーク便に変更している内にニューヨークもクローズしてしまい、空港が開いているハートフォードに飛ぶことにしました。ハートフォードは金融の街であり、かつてサラリーマン時代勤めていた会社の駐在オフィスがあり、なんとなく懐かしいひびきのある街の名であります。そのハートフォードにはきわどいタイミングで着陸しましたが、それから1日半飛行機は飛ばず、ついに諦めてエアラインが用意したキャブでボストンまで3時間あまり走りました。キャブの運転手によると外気が−10℃以下になっているということで、車の中も暖房が効かず氷点下。ボストン市内も1メートル近い積雪でした。この年北米はまれに見る大雪で、各地で航空網が切断され、多くのコンサートやイベントが中止に追い込まれていました。1993年秋のボストン訪問時に親交を深めていたイプスイッチ・ブルーイングというマイクロ・ブルワリーのオーナーであるポール・シルバさんのコーディネートで、極寒のヴァーモントのビジネス・ツアーに出かけましたが、この大雪で道路も寸断されていて、各所で立ち往生し厳しい旅程となりました。この時私は自分の人生で最も低い気温−30℃を経験しました。鼻水は瞬時に凍り、まつげは白く幕が張ります。車から降りたら、とにかく室内に出きるだけ早く駆け込むことが大切です。結局大雪のためボストンには戻れず、次の訪問地シアトルへはヴァーモントのローカル空港から出発するありまさでした。こうした事情で2回目のボストン訪問は市街をただ通り過ぎただけで、フェンウェイパークへはいけずじまいでした。北米の東海岸は、冬季にはしばしば大雪に襲われるわけで、ボストンという街の緯度の高さを実感させられることはしばしばでした。これから数年後ポール夫妻たちとカリブにクルージングに出かけたのですが、1月早々学校が始まるため我々より1週間早くボストンに帰ったポールの奥さんであるベヴァリーは、大雪のため学校が1週間閉鎖になり、「真面目にボストンに帰らず、カリブでのんびりしていればよかった」という笑い話もありました。さらに数年後の2月ポール夫妻を訪ねた私の娘の綾が、駅からポール宅までの雪の道で凍え死にそうになったエピソードもあります。10月ごろにボストンを訪れた際、ボストンから約1時間北のケープアンにあるロックポートのポールの家で、大型のストーブに薪をくべながらポールが「これから4月までストーブは欠かせないんだ」とポツリと言ったのを覚えています。4代続きのボストン子であるポールは、もちろんボストンのファイン・アートミュージアムの正会員であり、ボストン・シンフォニック・ホールの定期会員であり、彼の親友であるローン・スタントン氏はフェンウェイのボールパークにボックス席を持っています。90年前のボストンと当時のボストンでは大きく街の様相は変わっているわけですが、ボストン子の気質は今日にも引き継がれており、ポールや彼の奥さんであるベイヴとはなしながら、私は時々90年前のボストンで暮らした天心に想いを馳せておりました。

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わが心の天心-5 Tenshin on my mind

■1905年ボストン

 岡倉天心は1905年ボストン美術館の中国・日本美術部の顧問に就任しました。この年の前年から死の年まで、天心はボストン美術館のために精力的な活動を展開しました。1905年12月18日、天心は日本美術の漆器や金工を中心とした収蔵品の収納に必要な絹の袋を縫うボランティアに参加しているボストン市民の夫人や令嬢に向けて小さな講演を行っています。その概要は「ボストン美術館中国日本部の仕事に協力する婦人たちへの談話」(高階秀爾・訳)として記録されています。「茶の本」の成立については今日も諸説がありますが、そのひとつに、この1905年12月18日のような、天心によるボストン市民の夫人や令嬢のために行った談話がその素になっているという説があります。1904年ボストン美術館は天心を中国・日本美術の専門家として招請し、これを受諾した天心は早速精力的な活動を開始しています。そのひとつがこのボストン市民の夫人や令嬢によるボランティア活動であり、1905年にはすでに2つのボランティア・グループが活動していたといわれます。このボランティア・グループの成立には、天心の独特な人間的魅力と、巧みな人間関係づくりの才能がその底辺にあったといわれています。彼はボストン美術館の関係者に積極的に接触し、彼一流の接人法で多くの人々を魅了し、彼の活動の支援者達を組織化していったのです。彼は1905年の談話の中でも、夫人や令嬢たちにこのように語りかけております。

 「この性急な分類の時代においては、我々は品物に名札を貼れば、それですべての仕事を終わったと思いがちです。いわゆる科学の名において、われわれは芸術からその詩を奪い去り、それを単なる民俗学の一部分にしようとしています。われわれは進化の名において歴史を走り抜け、種のなかに存する個々のものを失っています。われわれは、偉大な巨匠たちが時代に属するのと同じくらい、時代もまた彼らに属していることを忘れています。わらわらは花の無心の心に接する代わりに植物学のみに溺れ、天を読み解こうとして夜の限りない美しさを見逃しています。世界を望遠鏡を通してのように眺めることより、事物の比例の感覚は混乱させられ、われわれ自身が大きく、昔の人々は小さかったと思い込んでいます。われわれは理解するべきところを批判し、芸術を崇拝すべき代わりにただそれと戯れています。人類の最も深遠な感情が、これほどまでに、わけのわからぬアトリエの専門用語のなかに浪費されてしまっているのは、まことに悲しむべきことです。

 皆様、あなた方へのこの訴えが、決して無駄に終わらぬことを私は知っております。エマーソンとロングフェローのこの町において、皆様が美を崇うことの範例を身をもって示されるのは、まことにふさわしいことです。今日より、過去の偉大さに敬意を捧げることを早速はじめようではありませんか」。

 往時世情をリードしていた、スペンサーの社会進化論を真っ向から批判しながら、自らの芸術論を展開する堂々たる論旨であります。わが国の若き芸術家たちに、そしてインドの革命青年たちに多大な影響を与え、彼らを魅了したアジテーター天心の真面目を垣間見ることができる談話の記録であります。こうしたボランティアの会をとらえて、天心はボストン市民たちの日本および中国の芸術理解のための様々な講演を試みています。そのために天心は毎回手書きの原稿を用意し、講演が終わると屑篭に捨てていました。その反故を助手のマックリーンが拾い集めたものが後に「茶の本」の草稿となったという説が伝わっています。

 1906年に入ると天心はボストン美術館のために、中国・日本の美術品の収集にも力を注ぎます。1906年の天心の美術館への報告書によれば、この年天心は如拙筆の山水図をボストン美術館にもたらしております。

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わが心の天心-6 Tenshin on my mind

■1415年 京都

 1906年に天心がボストン美術館のために収集した日本画の一つ「山水図」の作者は如拙でありました。如拙は南北朝時代から室町時代中期の禅宗の僧侶で後に画僧と呼ばれるようになった、絵を専門に描く僧侶のひとりでした。彼の生涯については不明な点が多いのですが、当時の禅宗の高僧であり、今日で言うところのアート・プロデューサーとして活躍した夢想疎石の碑銘建立に参与したことが明らかになっております。また応永年間(1384年-1429年)室町幕府の4代将軍足利義持の命により「瓢鮎図(ひょうねんず)」を描いたことなどが知られております。こうした事跡から如拙は足利将軍家と密接な関係を持ち、相国寺にいたことはほぼ確実であると考えられております。後にわが国の日本画の祖とも位置づけられる相国寺の画僧雪舟に大きな影響を与えたともいわれ、狩野派などによって日本における漢画の祖としての地位を与えられております。

 天心はこの時南宋の大家である馬遠筆の「霊昭女」も手に入れています。こうした天心の収集活動を見ると、もちろん天心が往時アジアの美術に関して名実共に優れたキューレターであったことは言うまでもなく、天心が日本美術史に関して並々ならぬ造詣の持ち主であったことをうかがい知ることができます。もちろん彼は当時の日本において、美術分野の第一人者であり、おそらく日本画および日本画に関係するところの中国・朝鮮に関する美術および美術史に関して世界でもっとも信頼できる学者の一人でもでもあったわけであります。

 まずもって言いうるのは、我が国の美術史に関して、その絵画部門においてそのオリジナリティと国際的水準の技術を確立したのは、南北朝時代から室町時代中期であったということができるでしょう。その黎明の鐘を鳴らした人物の一人が如拙であることは、今日疑いのないところであります。この分野の絵画は今日一般的に水墨画といわれる分野で、禅門との深い関係のなかで生成発展いたしました。今日この水墨画は東福寺の僧侶であった兆殿司を始祖とするというのが通説です。世に伝わる吉山明兆(1352-1431)のことです。明兆は淡路島に生まれ、画業を良くして安国寺に属し、後に東福寺に転じてその堂守をつとめながら多くの絵画作品を残しております。彼はいわゆる画僧の先駆けであり、終生東福寺の堂守の殿司をもってその役職としたため兆殿司の呼称で親しまれました。ある意味では彼は日本初の職業的画家であったということができるかもしれません。ついで登場してくるのが、相国寺の如拙であります。前述の通り如拙にかんする伝聞は極めて少なく、その「瓢鮎図」があまりにも有名であるため、如拙の存在は日本絵画史に今日も燦然と輝いているのですが、実際の彼の活動については本当こところは良くわかっておりません。しかし彼の描いた「瓢鮎図」は将軍義持の要望により新様で描かれたといわれております。この新様で描かれたというところが非常に重要なのであります。

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わが心の天心-7 Tenshin on my mind

■1424年 朝鮮

 「新様」とは何か。15世紀になってわが国に入ってきた余情豊かな新たな画風である南宋の院体画は、当時の日本人、といってもハイソサイティでありますが、そうした人々のこころを深く捉えたようです。この南宋の院体画のチャンピョンのひとりが、馬遠でありました。そうです、1906年に天心がボストン美術館の為に収集した如拙筆の山水図とともにリストに名が挙がっている「霊昭女」の作者馬遠であります。天心はもちろん馬遠と如拙という中国の南宋の画家と、わが国の室町期の画家との深い関係性を踏まえてボストン美術館のコレクションにこの二枚の絵を加えたのであります。室町期の日本の宮廷的サロンであった「花の御所」に参集する人々は、中国南宋期の宮廷画院のチャンピオンたちの作品にすっかり魅了されていました。それがまさに「新様」だったのです。将軍義持が如拙に「新様で書け!」と命じたのは、簡単に言えば「馬遠の様に書け!」「馬遠のまねをしなさい」と言ったということであります。こうした将軍の発言が出てくる背景には同朋衆(どうぼうしゅう)とよばれた人々の存在があります。同朋衆という人々はどういう役割を担っていたかと申しますと、今日でいうところのアート・ディレクターでありキュレイターであります。その意味では天心と同種の能力の持ち主たちという事が出来るでしょう。同朋衆は室町時代以降将軍のそば近くで用務や芸能の斡旋などにあたるようになりました。もともとは一遍の起した時宗(時衆)教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされています。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ相阿弥、芸阿弥など阿弥号を称しました。制度としての起源は、細川頼之が執事となって六人の法師を抱えて足利義満に仕えさせたことに始まるといわれております。こうしたアート・ディレクターのわが国における元祖が前出いたしました夢想礎石であります。ある意味で夢想礎石はアート・ディレクターというよりも、アート・プロデューサーというべきかもしれません。アート・プロデューサーという職能は、アートに関する人・もの・金・時そして情報を司る事により、一連の芸術イベントを成立させることにあります。私事ですが私もアート・プロデューサーとしての仕事をしていた時期があり、「ハートランド・ビア・ジャングル」「花と緑の博覧会:大地の息吹」ほかのアート・イベントを手がける機会に恵まれました。私たちはアート・ネットワーク「PXA(パグザ)」として活動いたしましたが、その時のアート・ディレクターは現在東海大学で教鞭を執る(株)環境計画研究所の池村明生さんでした。私の役割は池村さんがいかに彼の考えをアート・イベントの中で実現できるかを考え、下働きをすることでありました。夢想礎石の場合は国家プロジェクト的アート・イベントのプロデューサーでありましたから、天竜寺のような大寺院のプロデュースから、多くの名園といわれる庭園の設計監督を務め、アート・ディレクター群である同朋衆を手足として使っていたわけです。こうした同朋衆の目利きにより南宋の院体画も「花の御所」にもたらされ、将軍の口から「新様」発言が出る素地をつくり上げていたのです。こうして如拙の時代には、わが国の画家たちの絵の描き方までデレクションが行われる芸術的な成熟が進行していたと言えるでしょう。時代は如拙から周文へと引き継がれていき、わが国独自の水墨画の流れが形成されようとしておりました。如拙に絵の手ほどきを受けたといわれる周文が大蔵経の版を入手するための文化施設団の一員として朝鮮半島に渡たり、かの地で水墨画を描いたのは1424年の事だったと伝えられております。

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わが心の天心-8 Tenshin on my mind

■1946年 奈良

 周文は如拙から絵の手ほどきを受け、如拙の後を受けて足利幕府の御用絵師になっています。この周文と如拙を雪舟は自分の先生であるといったらしい。実際に呆夫良心の「天開図画楼記」には雪舟が周文と如拙を「我が祖」であると語ったと書かれているそうです。であるならば、如拙→周文→雪舟という系譜が描けるわけですが、実際はそうではありません。実際の系譜は如拙→周文→小栗宗湛となり、さらにこの系譜は能阿弥等へと引き継がれていくのです。

 周文は、室町時代中期の禅僧・画僧で道号は天章と称しました。相国寺の財政を担当する都管(つかん)という職にあり、御用画家として足利将軍家に仕えたといいます。1423年(応永30年)朝鮮派遣使節に参加し、翌年その地で山水画を描いたという話は前回いたしました。そのほか周文については多くの事跡が残されているのですが、不思議なことに周文自身が実際に描いたという作品は現存しておりません。ですから、周文の画風の実態については、伝周文とされる作品からそれを知る以外に手がないのです。

 伝周文作の作品は奈良国立博物館(国宝)、東京国立博物館(国宝)、根津美術館(国宝)などに収蔵されておりますが、六曲屏風の紙本墨画山水図(重要文化財)を奈良の大和文華館で見ることが出来ます。

 ここで、話は横道にそれます。大和文華館は1946年当時の近畿日本鉄道の社長であった種田虎雄(おいたとらお)によって設立されました。種田は敗戦の荒廃の中から、日本が文化的に立ち直っていくために、日本人が日本の文化の誇りを再び取り戻す日のために、京都、奈良、伊勢という日本の文化の中心地を結ぶ鉄道会社にふさわしい美術の殿堂をつくろうと決意しました。そして往時世界的な美術史学者であった矢代幸雄を初代館長に迎え、その想いを込めた仕事を矢作に託したのです。美術館の運営から作品の選択、収集まで、すべてを一任された矢代幸雄は、個人の好みによってではなく、日本文化の足跡を伝えるために、質の高い作品を系統的に収集することに尽力したのです。収集した作品は国宝4件、重要文化財31件に及んでいます。

 しかし、この事業は種田の死後難航を極め、実際に大和文華館が開館したのは1960年のことでした。種田の発意から14年後のことであります。日本の私立美術館の多くは、実業家、大名家などの大コレクションを母体にしていおります。大和文華館の場合は、最初に美術館設立のコンセプトがあり、その文脈の中でコレクションは後から形成されました。矢代はこのことを「美のための美術館」と呼び、所蔵品は観賞価値を第一にした名品が集められました。個人の嗜好によらず、ある時代や地域の美意識を代表する名品を、偏りなくまんべんなく集めるという矢作幸雄の方針は最後まで貫かれ、今日それは大和文華館の特徴の一つとなっています。

 周文の六曲屏風の山水図を、こうした志をもった大和文華館で、如拙、周文、雪舟という山水画の時代の流れに想いをはせながら見るのも、一興であります。

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わが心の天心-9 Tenshin on my mind

■1890年 東京

 今なぜ私が如拙、周文にこだわるのかを申し上げれば、岡倉天心著「日本美術史」の序論における天心の記述にその理由はあります。天心は言います。「前略〜雪舟の画は吾人が画を作る原素なり、中略〜若し雪舟、相阿弥なかりせば、我邦今日の美術は決して現在のごとき有様ならざるべし」。要するに天心は、日本人が日本人としてのオリジナリティを持った画をつくるおおもとは雪舟の画にあるといっているのであります。そして雪舟や相阿弥がいなかったら、今日の日本の美術は今あるようにはなっていなかっただろうとまで、言っているのです。古来日本の美術というものは存在するわけですが、日本人としてのオリジナリティを持った美術の起点は雪舟だといっているのです。そして雪舟や相阿弥がいなかったら、今日私たちが誇りにしているところの日本の美術はなかったかもしれない、とまでいっているわけです。

 岡倉天心による日本の美術の独自性=オリジナリティに関する雪舟起源説です。この発言は今日においてはある予測をもって聞きうるものであります。しかし岡倉天心が「日本美術史」を講義した明治23年頃においては、かなり大胆な発言であったと思われます。「日本美術史」は1890年から3年にわたって天心が東京美術学校で講義した日本美術史の講義内容を著書にまとめたもので「日本美術史」の嚆矢をなすものです。

 この「日本美術史」のなかで天心は、如拙、周文について以下のように記述しております。「僧如拙(拙又雪に作る)。九州の人。相国寺に居り、宋元の画風を作り、応永前後より文安前後の人なるが如し。此れは応永二十一年、画を周文に与えたること、文安中の所画あること等にもとづくなり。」

 「僧周文・如拙の弟子にして、此の人出でてより足利時代の画風二派に別る。」中略「如拙の画風は、未だ十分形をなさず。之れを周文に比すれば殆ど同人にして、一は壮年の作にして、一は老年の作なるが如し。如拙の拙にして不足なるものは、周文之れを捕せりと謂ひて可なり。筆の不足は濃淡を以って、濃淡の不足は筆を持って補へり。如拙の画中、福岡子爵山水、虎渓三笑、優なるものなり。文清。蘭芳等の印あり。周文も相国寺に住し、如拙と同等なり。永享頃の人にして、生没年共に不詳。当時の名手と称せらる。後ち近江国に住す。名は春育。心祖岳翁の称は従来其の別号なりと称したれども、岳翁の如きは全く別人なり。岳翁、周文の門人なりと云う説あり。周文の画風は如拙を一歩進めたるものにして、頗る濃淡の趣味あるを覚ゆ。松平茂昭氏蔵六曲屏風の山水、その傑作なり〜後略」。文中から矢作幸雄により大和文華館館に収集された伝周文の蔵六曲屏風の山水は松平侯爵家に本来伝えられたものであることがわかります。前回の寄り道は、この事実を踏まえてのものであります。今日大和文華館館収蔵され、往時天心が松平侯爵家で見た六曲屏風の山水は、天心の目にも優と刻されていたのです。

 天心が「吾人が画を作る原素なり」と言った雪舟の先生たちについての、天心自身による解説は以上の通りであります。

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