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ドゥ創造性研究所 Do Creativity Institute Inc. |
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ドゥ創造性研究所は、創造性を企業経営戦略およびマーケティングの基本におく理論と実践のプログラムを提供することを理念として掲げます。 創造性とは、わが国で唯一の独創的哲学を確立した哲学者西田幾多郎が言うところの「われわれの自己は創造的世界の創造的要素である」という基本認識(自覚)の下に、無から有を生み出す全てのプロセスをデザインし実践することにあります。
従来のわが国のマーケティングは欧米、とくにアメリカ合衆国において体系化された標準的マーケティングが主流でした。しかし20世紀後半から顕著になった、世界的な社会経済におけるパラダイムの転換により、欧米型の標準的マーケティングはその有効性を失い、市場を確実に捉えることが出来なくなったのです。
それは、従来の欧米型の標準的マーケティングが欧米における自然科学の理念(その基本はニュートン力学とデカルト的二元論およびカントによる認識論)にその根拠を置いてきた、その理論的な根拠が崩壊し、社会経済のパラダイムが大きく転換したために起きた問題です。
その理論的な基軸は大きく分類すると、1. 二元論的世界認識、2. 有の思想、3.自己肯定の論理によって根拠付けられています。
二元論的世界認識の克服二元論的世界認識とは主観と客観、意識と対象、理論と実践、固体と普遍というように、世界に実在すると考えるものを二元論で捉える考え方であります。西洋近代思想の伝統的な考え方は、基本的に二元論でありました。デカルトの「我思う、故に我有り」という箴言に端的に示されているように、考える我(自我)を実体と考えて、これを世界の外において、いわば世界の外から世界を客観的に考察しようとするものです。カントの認識理論はこのような考え方を徹底したものです。ニュートン力学を代表とする近代の自然科学は、このような二元論的世界観の基礎の上に構築されてきました。そして現在行われている経営理論やマーケティング理論もまたこうした二元論的世界観にその根拠をおいているのです。
しかしながら、西田幾多郎が指摘するように「われわれは世界の中で生まれ、世界の中で働き、世界の中で死んでゆく」のであって、世界の外に立つことなどは不可能なのです。「見るもの」(主観)と「見られるもの」(客観)を分離して、いわば世界の外から(自分は異なったものとして)世界を見るという二元論的な考え方は、どうしても人間本位の自己中心的なものの見方になりがちです。例えば地球環境の問題を取り上げてみても、環境の外から(資源の利用の対象として)環境をみるのでは、環境問題を解決することは出来ません。こうした二元論的世界観は企業のエゴイズムを許容し、差別的経営理論を生み、市場の独占の合目的化、人命人格の軽視という、現代の資本主義の病巣を形成して来ました。環境問題に対処していくためには、環境を外から見るのではなく、むしろ自分自身が環境の中に入っていって、いわば環境の中から環境を考える視点がなければ、環境の問題を真に解決することは出来ません。そのためには、西田哲学が提示しているように、認識を超越したところに真の実在があるという、二元論の徹底的な否定により、今ある現実の世界がそのまま実在の世界で あるという、一元的に世界を捉えていく視点が必要なのです。 それは将に西田幾多郎が指摘するように「我々の最も平凡な日常生活が何であるかを最も深く掴むことによって、最も深い哲学が生まれ」のであり、そうした哲学に根拠を置き、我々の最も平凡な日常生活が何であるかを深く掴むことによって、有効な経営理論、マーケティング理論を構築することができるのです。
有の思想の克服一般に西洋的な思想は有の思想であり、東洋的な思想は無の思想であるといわれています。西欧ではギリシャ以来、なんらかの意味で形のあるもの、実体のあるものを根本的実在と考えてきました。「無からは何も生まれない」という箴言に象徴されるように、西欧では全ての形あるものは他の形あるものから生ずると考えてきたのです。
キリスト教における創世記の考え方も、アウグスティヌスが言うように神(という有)なくして何者も生まれないのです。神という絶対有から全てのものが生まれてきたという有の思想です。ですから、西欧においては無とは形のないもの、有でないもの、非有であるもの、未だに有ならざるもの、有の欠如体として位置づけられて来ました。それゆえ「無からは何も生まれない」という考え方が生まれてきたのです。
一方東洋においては伝統的に、あらゆる形のあるものの根源に形のないもの、すなわち無を考えて来ました。すべての形のあるものは、形のないものすなわち無から生ずるという考え方です。それは言い換えれば一切の有は無のあらわれであるというのです。したがって、無の思想においては恒常的に不変なものは有り得ないのです。永遠に変化しないようなものは何一つないというのが東洋的無の思想です。 純粋に理論的に考えれば、有の思想より無の思想の方が整合的です。なぜなら世界の根源を有、すなわち「形のあるもの」と考えるならば、その有の生じた原因を考えなければなりません。いわゆる「ニワトリと卵の」堂々巡りに陥らざるを得ないのです。このような論理の悪しき連鎖を断ち切るために西欧では「第一原因」とか「究極原因」といった人為的な絶対的存在(キリスト教では神)を必ず前提とせざるを得ない自己矛盾に陥るのです。
世界の根源を無と考えるならば、このような自己矛盾に陥ることはありません。全ての有は無から生じるのであり、根源的な無は端的に無であります。そして無から生ずる有は、実体的な有からではなく、ある作用により無から生じるのですから、「ニワトリと卵の」堂々巡りに陥ることもないのです。そして無から有が生じる、ある作用というのが創造性であると考えられます。
このように無の思想は有の思想のように絶対的存在(絶対他者)、人為的前提を外に対照的、超越的に考えるのではなく、どこまでも自己の中に、内在的に実在を考えていきます。無は私達にとって外にあるものではなく、自己の中に、自己の底の底にあるのであり、それは真の自己であるといえるでしょう。無は自己の底のそこにある自己の根源であり、自己はすべての形あるものと同様に無の(ある作用:創造性)によるあらわれなのです。すなわち、根源的実在は私達の真の自己なのであり、従ってそれは絶対自者です。そこには自己と根源的実在の二元論は存在しえませんから、キリスト教の神のような絶対他者の存在の必要はありません。そして無の思想においては西田幾多郎が言うように「われわれの自己は創造的世界の創造的要素で」ありえるのです。
自己肯定の論理の克服デカルトが「我思う、故に我有り」と表現したように、西欧においては自己の存在を肯定し、二元論的に絶対他者の存在を前提とし、人為的前提を設けることによって有の思想を成立させてきました。逆に言うと有の思想に立とうとすると人為的前提としての絶対他者を於かざるを得ず、二元論を克服することが出来ません。現代のマーケティングにおける「お客様は神様である」という言葉に象徴される「顧客第一主義」「消費者絶対主義」の論理は、こうした二元論的有の思想による自己肯定の論理によって成り立っているのです。ここでいわれる「顧客第一主義」「消費者絶対主義」とは人為的前提であり、絶対他者ですから、観念的抽象論の上に成り立つ、観念上の顧客であり、抽象的な消費者に過ぎません。こうした自己肯定の論理は自己本位で差別的なものの見方を醸成し、企業の独善を許容するものです。
このような現代の社会経済の問題点を克服していくためには、西欧型の自己肯定の論理を克服していく必要があります。そのためには、自己肯定ではなく、自己が自己を滅却して世界の内側の物となりきったとき、初めてそこに真の行為や実践が生じると考えられます。主観と客観の二元論の否定ということを考えてみると、主観あるいは主体が自己を否定し、自己を滅却したし尽くしたところに開示される世界が真実の世界、すなわちあるがままの私達の生活の実体であるのです。このことは無の思想の視点からも同様に考えることが出来ます。ここで無というのは、自らはどんな意味においても形のないもの、形を持たないもののことであり、しかし一切の有(形のあるもの)の根源となるものです。一切の形のあるものを生み出すものです。自己を否定することによって、すなわち無であることを否定すること(創造性の作用)によって無でないもの、すなわち有を生じるのです。どんな形も持たないということを否定することによって、一切の形あるものとなるのです。 自己否定とは自己を否定することより、真の自己を肯定することなのです。
現代の経営理論やマーケティング理論の基礎となっている、二元論的世界観、有の思想、自己肯定の論理を徹底的に批判し克服することにより、新たな、真の経営理論、マーケティング理論が生誕するのです。 将に西田幾多郎が指摘するように「我々の最も平凡な日常生活が何であるかを最も深く掴むことによって、最も深い哲学が生まれ」のであり、そうした哲学に根拠を置き、我々の最も平凡な日常生活が何であるかを最も深く掴むことによって、最も深く有効な経営理論、マーケティング理論を構築することができるのです。
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