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エンサイクロペディア・クマグス

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エンサイクロペディア・クマグス-1

この稿の題を「エンサイクロペティア・クマグス」とした理由は二つあります。そのひとつは、文字通り南方熊楠に関する百科全書たらんとする志であります。そのふたつは、この稿の主人公である南方熊楠が、歩くエンサイクロペティアと申しますか、まさにエンサイクロペティアそのものであったことに思いを馳せた敬称であります。

私と熊楠との出会いは、今日熊楠に興味を持つ多くの人々がそうであるように、鶴見和子著「南方熊楠 −地球志向の比較学−」によるものです。1980年のことでした。熊楠に関する著述は「南方熊楠 −地球志向の比較学−」(1978年刊)以前と以後で大きくその傾向が分かれると思います。それはある意味で平野威馬雄的世界から鶴見和子ワールドへの変容であり、熊楠伝説から熊楠研究への転換であったと思われます。

私が「南方熊楠 −地球志向の比較学−」を手にするにあたって、一つの伏線がありました。それは1977年に刊行された鶴見和子著「漂白と定住と −柳田國男の社会変動論」の存在です。同書の中での鶴見先生のメッセージは、当時の私の心の中に深く突き刺さったのです。

「ハレとケとケガレのサイクルは、もとは、自然の推移の構造と併存する農業労働の循環構造をあらわしたものだ。ところが、これを、生涯漂白・一時漂白・定住という、社会的カテゴリーの脈略の中で拡大解釈すると、それは社会運動の分析の枠組みとして使いこなすことができるようになる。ある特定の地域共同体に定住する人々はそこに定住することによって、視野狭窄となり、惰性に流れやすい。精神的活力の枯渇をきたし易い(ケガレ)。その時に、元気を取り戻す方法は、二つある。一つは旅に出ることである。もう一つは、外から来る漂白を迎えて、あたらしいい知識や信仰や技術を学ぶことである」。

それは柳田國男の民俗学を理解するひとつの指標であると共に、鶴見先生が指摘された社会的な内発性の重要性と深くつながる概念でもあります。柳田國男が提起した「漂白と定住と」の社会変動のメカニズムの内発性は、鶴見先生の視座を通してパースペクティブな機能を顕在化したといえるでしょう。

「常民の歴史は、個体という観点からみれば、挫折の歴史である。自分の念いが十全に実現することがないからである。その意味で、常民の歴史は、挫折の歴史であり、幽の歴史だといえる。死者が希望して実現しなかった事業が、幾世代にわたってうけつがれ、やがては成し遂げられることがあるかもしれない。そのようにして、長い時間をかけて実現されてきた時に、潜在的な可能性としての歴史は顕在化する。「祖先」「他界」と柳田よぶものは、伝統の蓄積体である。成し遂げようとして成し遂げられなかった過去の事業の潜在可能性の総体である。死者の念として生者にうけつがれる情動または行動へのエネルギーとして、柳田はそれをとらえた。過去の伝統を継承しながら作りかえるといういきの長い行程として歴史を見るみかたは、死者と生者との連帯の可能性を考慮にいれなければ、成り立ちえない。現在および未来にわたって、可能性としての過去は実現される。過去は固定したものではなく、造り変えが可能だということを柳田は示唆しているのだと考える」。

鶴見先生が注目する柳田のこうした視座は、公の歴史に屈しない、別の見方で言えば統治者の「いうなり放題」にならない被治者の視座の確認と確立の志であります。そしてその視座は地球志向の視座として、南方熊楠が創出していった比較学のフレームと深く斟酌するものであります。そして死者と生者との連帯の可能性については、折口信夫が「葛の花の踏みしだかれた」色新しさを追求していった、その業績として後世に伝えております。

南方熊楠の広大なフィールドは上述してきた民俗学のフィールドをはるかにはみ出て、多岐に渡るのですが、その意識をもちながら、まずは民俗学的なアプローチからエンサイクロペティア・クマグスを紐解いて行きたいと思います。

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エンサイクロペディア・クマグス-2

 前回柳田國男に関する鶴見和子の論考「漂白と定住と」について触れました。漂白と、定住と、一時漂白という人間の常態に関する3つのカテゴリーを基軸とした社会変動の把握の方法論。この社会変動の方法論は南方熊楠が考えていた社会変動の方法論と極めて近いところにあります。柳田は人間社会の単位であるコミュニティ、それは村であったり、集落であったり部落であったりしたと思いますが、そのコミュニティひとつひとつが開かれた小宇宙であるという認識を持っていた。封建時代の村や部落は極めて閉鎖的であったという認識が歴史学の方では強くあります。そうした地域社会、コミュニティの閉鎖性が日本の近代化の桎梏となってきたという近代史観です。いわゆる時代劇の三度笠ものなどを見ていますと、お決まりで出てくる社会観、歴史観ですが、村の掟の中でやっていけない社会的な脱落者がいわゆる渡世人になって活躍する。「木枯らし紋次郎的世界」です。村や部落とのかかわりを断ってその仕組みの外で生きることを選択する。一種のアウトサイダーである紋次郎は、社会ルールの中での問題解決を行わず、彼独自の行動原理により当面の問題を解決し「あっしには関わりのないことでござんす」と言う決まり文句を発してコミュニティの枠組みに絡め採られることを拒否して去っていくわけです。そしてコミュニティ側の村なり部落は、紋次郎の非日常的な問題解決の結果だけを取り込み、コミュニティ側の論理に置き換えて日常性を取り戻します。このアンビバレンツな状況とそこから恒常的に脱していくアウトサーダーの姿に現代人は俗にいう「かっこよさ」を感じるので、いつの世にも三度笠的物語は人気がある。しかしそれは都会的な、コミュニティからの阻害による孤独感に苛まれる現代人の持つ、アウトサイダーへの共感に過ぎないことは見ている現代人も良く分かっているので、その共感は社会的な変動要因へとは絶対に増大していきません。実際のコミュニティではその組織体が呼吸をするように漂泊者を受け入れてきた。それはある時は芸人であり、ある時は宗教者であり、ある時は技術者であったわけです。猿回しや、春駒や、様々な形態の漫才などの門付け芸。聖、毛坊主、歩き巫女などの宗教者。石工や漆職人などの技術者であります。その中に賭博などを行う三度笠も含まれていたのかもしれません。日常的にもこうした漂泊者と定住者の出会いはあったと思われますが、多くの場合「祭」のようなイベントや季節ごとの端境である節句などをひとつの結節点として、漂泊者と定住者の出会いは定期的に行われていたわけです。そして漂泊者たちは様々な効能を残してコミュニティを活性化、あるいは浄化して去っていく。時代が下がりコミュニティの組織化が進むと、場合によっては「旅」という形で定住者が一時漂白者となり修学旅行に出かけるわけです。伊勢参りや金毘羅参りのほか、様々な形で現れる巡礼行為は一つの教育性を持っていたと考えられます。一時漂白者としてコミュニティを離れ、やがて帰還する人々は、漂泊者以上のインパクトをもってコミュニティに内発的な活性化をもたらしていたと考えられます。また、コミュニティにおいてある罪や穢れをこうむった人が巡礼となって修学旅行に出かけ、様々な体験を経て教育的成果を挙げ村に帰還することを許されるのです。こうしたコミュニティの自浄活動、活性化運動はひとつのエコロジカルな社会変動であると捉えることができるのです。柳田はそれを日本の村落の伝承や風習を調べ上げる中でひとつの社会変動の仕組みとして捉えようとしました。しかし、なぜコミュニティと人々は自らの組織の枠組みをはずしてまで漂泊者を受け入れ、「祭」という非論理的時空を認めて漂泊者との交流を行ったのでしょう。南方熊楠の視座はきわめて早い時期にこの問題意識に達していたとおもわれます。それは熊楠の生物学的なアプローチを基礎とした視座であります。そこに柳田と南方の根本的な視座の違いがあると鶴見先生は見ているのです。柳田は必然性の論理を突き詰めることで、論理的に漂白と定住のメカニズムを解明していきます。「なぜそうなるのか」という視点です。熊楠も同様に「なぜそうなるのか」という視点を持っていますが、さらに彼は「なぜそうならないのか」という視点も併せ持っていました。必然的ではなくそうなる。偶然にそうなるという偶然性の視点です。この複眼性が南方熊楠に当時としては特異な視座を持たせたと思われます。熊楠はおそらく日本で始めてエコロジーという言葉を使用した人です。南方の複眼性というのは、実は彼の先駆け的エコロジー理解に根ざしていると考えられます。それは南方熊楠における創造性の問題であると鶴見先生は指摘しています。

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エンサイクロペディア・クマグス-3

 熊楠および柳田、折口に関する創造性の考察は鶴見和子著「殺されたもののゆくえ〜わたしの民俗学ノート〜」(はる書店)に詳しい。1985年の著作である同書は南方熊楠の先駆的研究としても格別の成果をあげておりますが、鶴見先生が折口信夫の民俗学に深く触れている点が注目されます。これ以降の先生の熊楠研究はそれなりの発展を遂げるのですが、その論理的レベルについて言えば「殺されたもののゆくえ〜わたしの民俗学ノート〜」でひとつの頂点に達していると思います。わが国の民俗学に関して、その先駆け的な研究者は柳田、南方、そして折口信夫が上げられ、後にフィールドワークの視点および実証主義的な観点から宮本常一の方法論が(これも優れた業績であります)わが国のひとつの民俗学研究の典型となるのですが、先駆者3名の業績はその内容の深さにおいて、その後の学会の無視を超越しております。特に折口信夫については彼の特異なシチュエーションから、学会では意識的な無視や除外が続いてきているように思います。

 鶴見先生は南方と柳田の創造性の比較を行うに当たって、折口の存在の重要性に気付かれたようです。鶴見先生の考えでは南方と柳田は対極にいるのではなく、むしろ南方と折口が対極にあり、柳田はその中間的な位置を占めていたと考えます。それは一つの仮説だというのが鶴見先生の立場でしたが、何故なら鶴見先生は折口については自分は未学であり、池田弥三郎の折口分析を借りての比較検討であるため、それは仮説に過ぎないのだというのです。鶴見先生は折口信夫と言う秀峰を自分の足で登りたい、と記されていますが残念ながら鶴見先生によるまとまった折口研究はついに世に出ませんでした。鶴見先生は、3人の創造性について分析する前に、創造性自体に言及します。そして精神分析学者のシルヴァノ・アリエティの創造性の分類に注目します。アリエティの略歴は以下の通りです。

 1914年イタリアのピサに生まれる。1938年ピサ大学医学部を卒業したのち、ファシストの迫害を避けて渡米し、新フロイディズムの中心、ウイリアム・アランソン・ホワイト研究所に学んで精神医学と精神分析の開業資格を取得。1961年以後、ニューヨーク医科大学の臨床精神医学教授を努める。著作として『想像力』『精神分裂病の解釈』他多数。1981年歿。

 アリエティによれば一般に創造性のプロセスには、二組の異質な仕組みが存在するというのです。その第一は明晰にして判明なる概念。今ひとつは曖昧にして形の定まらない概念。この曖昧にして形の定まらない概念をアリエティはendoceptと名づけております。このアリエティの造語であるendoceptを鶴見先生は内念と訳されました。第一の明晰にして判明なる概念はconceptです。アリエティはこのconcept とendoceptが結合もしくは融合する時、創造性が発露されるというのです。さらにもう一つの組み合わせは形式論理と古代論理の結合です。形式論理というのはアリストテレス以来の論理学の原則である同一律、矛盾律そして排中律にもとづく論理であります。この形式論理学は古代ギリシアに発し近代西欧社会の合理主義のバックボーンとなってきたものです。古代論理の方は説明が難しいのですが、ものごとをその異質性によって区別するのではなく同質性によって包括的に理解する論理であります。たとえば「太陽と芥子の花は同じだ。なぜなら両方とも赤い」というような論理であると鶴見先生は説明されております。この形式論理学と古代論理学の結合もしくは融合が今ひとつの創造性の発露であるとアリエティは指摘するのです。この合い矛盾するような二つの組み合わせにより芸術においても科学においても、創造性が発露されるのだとアリエティは仮説します。さらに詳しく言うならば、アリストテレス以来の形式論理と、デカルトに象徴される明晰にして判明なる概念。古代論理のアバウトな統合性と曖昧模糊とした内念。そのいずれかだけでは創造性は発露されない。要するに極めて合理的な思考だけでは創造性は発露しない。また曖昧模糊とした統合的論理だけでもいけない。概念と内念、形式論理と古代論理とを結びつける何者かが作用するとき、新しいシステムが創り出される、というわけです。鶴見先生はこのアリエティの創造性の考え方を活用して、その内念と古代論理の側面がより強く現れたケースとして折口の創造の世界を考えようとされたのです。

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エンサイクロペディア・クマグス-4

 アリエティが創造性もしくは創造力について分析したのは、西欧の著名な学者や芸術家の事跡についてです。ニュートンの場合は例のりんごの落下するのを見て万有引力の概念の端緒を開いた話を挙げております。要するにりんごの落下と月の運行という全く異なる事跡の同一性について、ある閃きがあり万有引力が導かれるその創造的プロセス。まず先行するのはりんごが木から落ちるのを見て、月が軌道からはずれない法則と同じ原理が働いているのではないかという同一性への直感です。さらにニュートンはりんごが落ちる運動と、月の運行という運動を、万有引力というconceptを提出することによって新たな原理を創出するわけです。この新しい原理の創出には明晰な概念と、形式論理学の力を媒介しなければなりませんが、りんごと月の運動の同一性は無意識の内に発見されているわけです。アリエティは同様な事跡としてポアンカレーの非ユークリッド幾何学の変数を媒介としたフックス関数と不定の三個の変数を有する二次方程式の算数的変換は同一であるという証明の事跡を挙げています。こうしたアリエティの創造性に関する論考から鶴見先生は創造の「三つの型」を導き出します。第一は異なるシステム間の相違と矛盾を明確化したうえで、異なるシステム間に具体的な部分的な同一性を認知し、これを概念化して新しいシステムを創出する。すなわち対決から統合にいたる創造プロセスを持つアリエティ型の創造性であります。これを「概念と形式論理優勢型」と鶴見先生は名付けています。この対極として、内念と古代論理が優勢な、ようするに無意識レベルでの作用が強く反映される、「内念と古代論理優勢型」という類型を第二の創造性の型であると考えるのです。アリエティにおいては第二の型は芸術的創造性にのみ存在すると考えるのですが、鶴見先生においては第二の型も全ての創造性に適応すると考えます。第三の型は、第一と第二の「折衷型」です。第三の折衷型はアリエティおいては想定されていません。第一の型における異なるシステム間の相異や区別をはっきりさせず、たとえ矛盾するシステムであっても、対決を避けて併存させることで第一の型と区別されます。鶴見先生は特にこれには名前をつけておりませんが、言ってみれば「内念的概念と形式論理重視型」ともいうべき類型であります。以上がアリエティの論考から導かれた鶴見先生による創造性の三つの類型です。この三つの創造性の類型は、フィリップ・ヴァーノン(心理学)が定義する次のような創造性に関する定義にも合致しています。創造性とは「考えの新奇な組合せ、ないしは異常な結合である」とともに「その組合せまたは結合は、社会的ないしは論理的な価値をもつか、または、他者に対して感情的な衝撃を与えるものでなければならない」。この第一の類型に南方熊楠を置き、第二の対極の類型に折口信夫を、そして第三の折衷型に柳田國男を想定する鶴見先生の創造性論は私には非常に魅力的な構図に見えます。しかし、鶴見先生はこの創造性の「三つの型」の仮説はうまくいかなかったと結論付けておられます。何故かという点については、折口について分からないことが非常に多くて「これはだめだな」と思われたそうです。しかし私はこの鶴見先生による創造性の「三つの型」仮説を捨てきれずにおります。

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エンサイクロペディア・クマグス-5

 折口信夫の民俗学は、柳田を師と仰ぎながら独自の生成と発展を遂げました。折口信夫という極めて個性的な人格のもとに形成されたいわゆる「折口学」は、現代においては極めて評価が難しい学系であるといえると思います。現在、最も先鋭的な文学表現者の一人であるとの強い自覚をもつ松浦寿輝の「折口信夫論」に見られるように「一度は叩いておかなければならない」対象としての折口という意識の中で、既に折口に包摂されてしまっている現代的俊英の屈折した視点の例を引くまでもなく、折口学は現代的課題でありつづけています。無視してよい存在としての折口を無視できなかった、松浦の寄って立つ「権力とは現勢化するエロスの反復形態である」とする三島由紀夫的な歴史的視座の脆弱さは、折口の「実感」ほどに説得力を持ちません。わが国の民俗学は、他の社会科学と同様に明治維新という歴史的結節点を前提としてその産声を挙げました。しかし、その生成は南方熊楠、柳田國男、折口信夫という、ある意味では学界の正統から外れた巨人たちによって担われたため、他の社会科学の生誕と発展とは大きく異なる様相を呈したのです。

 簡単にいえば、その経歴の最も正統である柳田國男ですら、その前半生は農務官僚であり、折口は歌人釈超空として世に出たのであり、南方熊楠についてはその生前わが国の学会では全くの枠外の人物でありました。その意味でわが国のフォークロアの学は極めて特殊な生成と発展を遂げた学統であるといえるのです。

 このような経緯があったとしても南方においては顕著に、柳田においても基本的に西欧の学統の求める基本的作業ルールと義務については、意識的に遵守されております。しかしながら折口の場合は、一般的に言うところの文学博士としての西欧対応武装は意識されておりません。少なからず西欧の学としてのフォークロアについて、折口は殆どといってよいほど学んでいません。フレイザーの「金枝編」ですら彼自身が原書での通読をしていないことを明らかにしております。国学院と慶応義塾の教授であった、国文学者であり民俗学の権威であった折口の立場として、そのことは外延的には弱点であり、問題点であるということができるでしょう。しかし折口にそのような自覚があったとは考えにくい。よしあったとしても、彼にとっては意に介すべき何者でもない小さな問題だったと思われます。その折口の学問業績が彼の死後半世紀を過ぎた今日においても現代的課題であり続けている(と私は考える)ことの重要性は看過されてはならない問題であると思います。

 それでは折口の提起した学問的課題とは何だったのでしょうか?その解答は容易ではありません。しかし確実に言えるのは、現代においては多くの学者や研究者が容易に折口の学説の誤りを指摘できる、それは松本清張のような推理小説家にも可能な仕事でありましたが、その脇の甘さ、学問の精緻化にもとる作業にもかかわらず、本質を遣り当てる力、これを直感といってよいかどうかは大きな問題がありますが、あの柳田をして憮然とさせた「実感」は、科学的でないという科学的な批判の正当性をはるかに超えて的確であったりする、透徹さを持っているのです。

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エンサイクロペディア・クマグス-6

 折口信夫の学問的な方法論を「古代論理」と見て、その「遣り当て」る「実感」を評価する考え方は、必ずしも折口の学統に引き継がれたかというとそういう訳ではないように思います。折口の慶応側の後継者としては池田弥三郎がおり、國學院側にはいわゆる折口の五博士と称せられる5人の学者がおります。

 折口の五博士とは西角井正慶、高崎正秀、藤野岩友、今泉忠義、大場磐雄の五人を指します。いずれも折口信夫がその論文を審査し、学位を授与した人々です。西角井正慶は埼玉県生まれの国文学者、民俗学者。歌人としても著名で、文学博士、國學院大學教授。神楽の研究に実績があり、その生家が神社の正統であったため,折口に愛され、折口の秘蔵っ子といわれた。高崎正秀は富山県生まれの国文学者。文学博士、國學院大學教授。藤野岩友は楚辞の研究で高名。中国文学者で國學院大学教授。文学博士。今泉忠義は源氏物語の大家。その厳格を極めた授業は学生を震撼とさせたが、その学生を愛すること山のごとく、学生を思うこと海のごとくして、多くの学生の尊敬を集めたという。國學院大学教授で文学博士。大場磐雄は東京生まれの考古学者。自らの学問を「考古民俗学」と称した。学生時代からその卓抜した文章力、思考力は小林秀雄が認めるほどの逸材。文学博士、國學院大学教授。綺羅星のごとき硯学たちであり、学者としての業績は折口に勝るとも劣らない人々であり、彼らの存在は折口信夫の誇りでもありましたが、その学問の独創性については折口に遠く及ばぬものがあります。

 その点、慶応側の折口の学統の代表バッターである池田弥三郎は、その個性において折口に匹敵する人物であり、折口の芸能史を継承し、折口亡き後の折口学の語り部的存在でありました。しかし、彼をして折口学の正統な継承者とはいいがたい側面が少なくない。それは民俗学に対する基本的な姿勢において折口と池田には大きな相違があったと考えられるからです。池田は折口の「まれびと論」などの基本的な考え方を受け入れながらも、折口的な宗教学の色彩は薄かった。戦後の折口の神道的な宗教理論に池田は必ずしも賛同していたとは思われない。むしろ池田は折口の民俗学を批判的に継承する中で、独自の芸能史論を打ち立てていったと考えるべきだと思います。

 池田弥三郎にしても、折口の五博士にしても、それぞれの分野における業績において後世に残るものがあり学者としての領分において十二分にその役割を果たしたと評価される人々であります。だが折口信夫においては柳田國男の場合と同様に学者としての領分に留まらず、思想家としての立場において国家的な、あるいは世界的な課題に応えなければならないという気概がありました。それは広い意味において南方熊楠にも見られるひとつの特徴であります。1945年8月15日。わが国は敗戦という未曾有の現実に直面しました。この歴史の断層に直面したとき、思想家は思想家としての自らの立場を明確にすることを迫られたのです。この時すでに世に亡かった南方熊楠は別として、柳田國男も折口信夫もこの未曾有の体験を受け止め、自らの立場を明らかにすることになります。それは1970年、一小説家としてではなく、時代の課題と対峙する思想家として三島由紀夫がとった行動にも、同種の自覚が見られます。気鋭の社会学者大澤真幸は「1970年前後に、日本の戦後史の大きな転換を見ても良いのではないか」(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書)と指摘しています。凡人には意識することが出来ない時代の結節点に於いて、思想家は自らを賭して発言し行動しなければならないのでありましょう。柳田も折口も敗戦という時代の結節点において、学者の枠組みを超えて、思想家としての発言を行いました。

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エンサイクロペディア・クマグス-7

 折口信夫は1945年8月15日以降1953年に亡くなるまで、「神道」に関して現在のわが国の思想的状況下では理解しがたい考え方を提示し続けています。それは折口信夫による「神道」の宗教化論とも言うべきものです。折口が「神道」の宗教化ということに考えが及んだその端緒は、1945年8月15日以前であったことを、彼自身が戦後行ったNHK第一放送での放送の原稿の中で確認できます。その放送原稿は現在「神道の新しい方向」という小論として読むことが出来ます。この「神道の新しい方向」の冒頭で折口は次のように述べております。

 「昭和二十年の夏のことでした。まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄ってゐようとは考えもつきませんでしたが、その或る日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るような気持ちがして、愕然といたしました。それは、あめりかの青年たちがひょっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力しているのではなかろうか、もしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかといふ、静かな反省が起こってきました。」

 この一文を読んで現在、極めて奇異な印象をもつ人々は多いでしょう。しかし、彼がこの発言を行った昭和21年6月の時点においても、このような発想は極めて特異なものであったと考えられます。まして、終戦間近な時期とはいえ、終戦に至っていない1945年の夏に、このような考えを啓示的にせよ持った日本人は、折口信夫以外にいないのではないかと思います。この小論はさらにこのように続いていきます。

 「けれども、静かだとはいうものの、われわれの情熱は、まさにその時烈しく沸つてをりました。しかし、われわれは、どうしても不安で不安でなりませんでした。それは、日本の国に、はたしてそれだけの宗教的な情熱をもった若者がゐるだろうかといふ考えでした。」

 折口は終戦を間近にして、日本には厳然たる普遍宗教が存在しないことに気付き、それを純粋に担おうとする青年層も存在しないことに愕然としたわけです。終戦以前、特に昭和期に入ってからの日本には、一種の神国思想というものがあり、天皇を中心とした神国国家観というものが極端な形でたち現れていました。神道はその中核を担う宗教的要素を持っていたわけですが、折口は神道は宗教として機能していないと考えたわけです。折口は神道が宗教として機能しない理由を次のように説明しています。「神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるということが出来ます。神道では、これまで宗教化するということをば、大変いけないことのように考える癖がついてをりました。つまり宗教として取り扱うことは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。神道をあまり道徳化して考へてをります為に、そこから一歩でも出ることは道徳外れしたもののやうにしてしまふ。神道は宗教じゃない。宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるものと同様になるのと同じだといふ、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てて、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みしてきました。」

 教派神道とは明治以降政府によって公認された13派の神道宗教のことで、金光教や天理教など江戸末期の新興宗教を多く含んでいます。今日「神道」と書いて「しんとう」と読むことすら一般的コモンセンスから外れている状況で、この折口の論理を理解することは難しいと思われます。幕末から明治維新が推進されていく庶民レベルでの地下的思想として、「神道」の担った役割は小さくありませんでした。ある意味で維新勢力はこの地下的思想としての教派神道を利用することにより倒幕活動を推進した側面があります。維新後新国家の建設に当たって国家宗教を模索する中で、旧勢力(幕藩体制)の国家宗教であった仏教を排斥するとともに、新たな国家の中枢のシンボルとしての天皇を意味づけ、天皇家の祖先神である天照大御神(伊勢神宮が本拠)を主神とする国家宗教が模索された形跡はありますが、この時折口が問題にする教派神道の存在が、天皇家の祖先神としての天照大御神を主神とする国家宗教の構築を阻害する要素として働いた事実を折口は指摘しているのです。こうした状況から神道宗教が明治維新時に成立しなかったことを折口は残念がっております。

 「ただ此時に、本当の指導者と申しますか、本当の自覚者と申しますか、正しい教養を持って、正しい立場をもった祖述者が出て来て、その宗教化を進め行つたら、どんなにいい幾流かの神道教が現れたかもしれないのです。ただ残念なことに、さういう事情に行かないうちに、ばたばたと維新の事業は解決ついてしまいました」。

 ※折口の引用は出来るだけ旧仮名遣いを生かし原文に近く引用しましたが、一部紛らわしくなる部分を現代仮名遣いに治してあります。

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