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10-弱い結びつきの力 - Strength of weak ties-
1985年の秋、私は当時のキリンビール(株)マーケティング部の新商品開発チームが手がけていた『F』プロジェクトと呼ばれる新商品開発プロジェクトに参画する僥倖を得ました。それは後に『キリン・ハートランドビール』となる商品の開発プロジェクトでした。その年の5月、私は無謀にも12年間勤めた上場会社を退職し、アパート一間の事務所でマーケティングのプランニング・オフィスを設立したばかりでした。私はすでに35歳になっていました。その経緯は拙著『チャンスの素 素的ネットワーキング論』(みずうみ書房刊)に詳しく書いたので詳細は省きます。同書は20年近く前の出版であり、すでに絶版になっているにもかかわらず、古本市場では活発な動きがあるようで、読者の皆様にはこころから感謝しております。
このプロジェクトへの参画は、私にとってその後のビジネスに決定的な影響を受けるものとなりました。そこには、今日『私が考えるマーケティング』というものがあるとすれば、そのほとんどの要素が内包されていたのです。
このプロジェクトを当時担当していたのが、現在のキリンビールの執行役員である前田仁(ひとし)氏だったのです。前田さんはハートランド・プロジェクトについて、おそらく意識的に多くを語っていませんが、たまたま『Internet Magazine』のインタビューに答えた記事がありますので、これに基づきハートランドビールの開発について跡付けてみたいと思います。
前田さんは、記者の質問に答えてハートランドビールの開発経緯についてこのように答えています。「世に出たのは1986年、(私は)30歳代半ばでした。ハートランド・プロジェクト自体は1984年から検討して、挫折しそうになっては復活する繰り返しでした。“キリン”という当時すでに強力にできあがっていたブランドとは違う価値を求めたのです。『おじさんのブランドとして確立されているが、自分たちのような若い人のブランドではない』という兆候が当時の調査で現れていたので、そういった問題意識から『キリンとはまったく違う新ブランドを創ろう』としました。社内外の人たちと『新しく到来する価値とは何か』について、ずいぶん議論しました。〜中略〜そしてテレビなどマスを使って一気に商品を売るという方法とは違うことができないだろうかと考えたのです。“マス”という“大衆”を追っていくことは、一部のお客様からみればエキサイティングではなくなります。そこで『完全にキリンのアンチブランドを創ろう』というプロジェクトがスタートしたのです」/Internet Magazine1995年3月号編集長インタビュー。
市場導入のプロジェクトは紆余曲折の末、六本木の元毛利家の下屋敷跡に立つ古い4階建ての洋館と、ウィスキーの貯蔵倉を改造したビア・パブからの展開が始まりました。『つた館』と『穴ぐら』と命名された二つの施設では、様々な情報発信が試みられました。それは『お絵かき小町展』や『アーティストの森』などの、今日では珍しくはありませんが、往時としてはそれまでの既成概念を超えた飲食店を会場としたアートの企画展であり、『DIG GIG』と題されたミュージシャンの表現活動でありました。
プロジェクト・チームの中で私はアートの企画展と酒販店・料飲店のネットワークの運営を担当していました。このハートランド・プロジェクトを通して500人を超えるアーティストのネットワーク『PXA』が形成され、若き日の田丸卓さんやまだ芸大の博士過程に在学中だった村上隆さん、後に林望氏の著作のイラストを手がけた後藤薫さん等がメンバーでした。ディレクターは弱冠26歳の池村明生君((株)環境計画研究所)でした。
酒販店のネットワークは20余年を経た現在も株式会社ヴィネットとして活動し続け、酒販店の協業によるイタリアワイン等の直輸入を手がけています。この間の事情を前田さんは次のように述べています。「まずは既存の流通網である酒屋さんなどに単純に商品を供給するのではなく『コンセプトを共感していただけるお店を絞り込んではどうか』と考えました。さらにそれならばテレビなどを使って一方的に売り込むよりも、いっそのことお客様自身に本物を発見してもらい、その体験を一緒に共有する場所を提供できないだろうかと発展しました。そして『場所を創るなら他人に任せたくない』ということで、自分たちで店舗をつくり『じゃあ店長は私がやるよ』という具合に進んでいったのです。レストランの店長として私は素人でしたが、みんなと意見を出し合いながら、およそ60人のスタッフでイベントなどを展開しました」/(同)。
このプロジェクトの寄って立つ基盤としての新しい価値について前田さんは「当時は認知率より好意率(知名度より理解度:著者註)のようなものを大事にしようと議論しながら『新しい価値とはなにか』を5つにまとめました」/(同)と述べています。その5つとは「まず、集団よりももっと『個人が主役、活動する時代になるだろう』ということです。2つ目は『たくさんの情報があふれる中で主体的、自発的に能動的な情報判断が求められるだろう』ということ。3つ目は、当時はよく『モノから心へと向かっている』なんて表現をしていましたが、『人間の感性が大切にされる時代がくるだろう』と考えました。そして、4つ目は『既存のできあがった価値観は崩壊して、新しい本物が生み出されるだろう』と予測しました。最後の5つ目は『非常に満たされた社会から逆に可能な限り引き算したほうがいい』ということで“Less is More”と呼んでいました。この5つ目のことは『吾唯足知』(われただたることをしる)、つまり『人はすでにキリがない欲望の空しさを知って分をわきまえて自制することが肝要』という意味です」/(同)。
そこには市場のパラダイムの転換と共時的価値形成の予測。バブル発生の予兆に対する予言的警告。氾濫する情報の中で主体的に『遷移定常』する(=ネットワーキングする)価値への確信が語られています。今も私の手元にある黄色く変色したハートランドビールの『新ブランド企画書』のほぼ中ほどにこれらのことは記載されています。私はハートランド・プロジェクトを通して、企業からの一方的で暴力的なマス・コミュニケーションによる消費者との対峙的な緊張関係を克服し、企業と消費者の間に共時的に形成される主体的な価値(商品価値)が内発的な生命力を育み、好循環する仕組づくりを体験したのです。それは将に今日、井上哲浩慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授(以下井上哲浩教授)が論述されるところの、ブランドの価値化であり知識構造化のプロセスでありました。そこには企業側から意図的に仕掛けられることにより形成された、消費者との共時的な価値、消費者の中での知識構造化、そしてブランドをサスティナブルに構築する『共感』と『共鳴』があったと考えられます(前述の5つの新しい価値の共有)。
それを前田さんは「商品の価値をお客さまと共有して共犯者にしてしまう」/同。と表現しています。ここでいう共時的とはカール・G・ユングのいうところの共時性です。それは私がそれまで経験してきた統計と確立のマーケティングとは明らかに異なるアプローチでした。ハートランド・プロジェクトではポジショニングを明確にすること、『どこに市場があるのか』ではなく『どのように市場を創造して行くのか』ということが常に念頭に置かれていたのです。
このような考え方に立つことによって、市場を生命系→人間系→情報系の有機的なモデルとして捉えなおすことが可能になるのです。企業と消費者の共時的な価値形成による生命力を持つ商品やサービスは、あたかも植物が繁茂するように、主体的な情報網を伝って市場の水脈に沿って『遷移』し、生態的適所に至って相互に連関しながら市場空間を形成し、定常開放系の市場を構成します。それは『市場価値』の提供者である企業と『使用価値』の形成者である消費者の間に醸成される共時的価値の共有なのです。
このことは石原武政元大阪市立大学教授による『需要開発』のアプローチとの深い連関をもっていると私は考えました。「企業の活動の神髄は、明確なニーズにただ応えるといった受動的なものではなく、消費者がまだ具体的に気づかない欲望をいわば『内的像』(共時的な欲望:筆者)として受けとめ、それを具体的な製品として具現化させるという能動的な側面にあるのではないか。それは批判的な意味を含めた『需要操作』ではなく、もっと積極的に『需要開発』とでもいえるのではないか」/石井.石原(マーケティング・インターフェイス:白桃書房)。
消費者の選好あるいは欲望は企業の生産活動に依存しつつ、共時的に形成される『価値』の確認を経て、主体的に使用価値を形成するのです。それは今日的に言えば、ビアホールハートランドというハブ(hub)を中心に形成された、スケールフリーなネットワークです。このようなネットワークの中で共時的に形成される『価値』の確認は、企業と消費者の自発的なコミュニケーション(既存のマス・コミュニケーションではない)によりブランド(商品やサービス)の持つ資産を、情報系の中で好循環させ知覚品質を形成します。今日井上哲浩教授が指摘するところの「知識構造化」です。こうして知識構造化されたブランド(商品やサービス)は相方向的情報交換の繰り返しの中で再生のエネルギーを維持しつづけ(エントロピーの止揚)、開放定常系の市場を形成し、内発的な生命力を持ち続けるのです。知識構造化により価値化されたブランドが自発的に形成するネットワーク。この価値を媒体としたネットワークの理論が『遷移定常理論』の骨子です。
ハートランドビールはマス・ブランドではありません。しかし、この二十数年間におそらくは200件を超える開発と市場導入が行なわれたビール商品の中で、唯一マス・コミュニケーションに依存することなく、企業と消費者の相方向的情報交換の繰り返しの中で、再生のエネルギーを維持しつづけ、開放定常系の市場を形成し内発的な生命力を持ち続けることにより、今日も少数ですが強い消費者の支持を受けて、その商品生命力を保ちつづけている極めて特異な商品です。従来ハートランドビールによって実証された『遷移定常理論』は、マス・プロダクトのマーケティングとしては有効でないと考えられてきました。しかし、近年のインフォメーション・テクノロジーの発達と、ネットワーク理論の発展により『遷移定常理論』はさらに実効性の高いマーケティングの理論として、大きな可能性を持つものであると考えます。
すでに述べたように、ハートランドというビールはその開発側の発想からすると、かなり難しいことをいっているビールです。5つの価値のひとつを取り上げても、その意味が伝わるためには、相当の努力が必要であるように思われます。それが5つもある。そんなことが本当に伝わるだろうかというのが素朴な疑問です。それはその通りであると言うほかないでしょう。それ故にハートランドビールのブランド・ステートメント、ブランドの意味、ブランドの価値を伝えるためにはマス・コミュニケーションによる事が出来なかったのです。このような意味性の強い、ある意味ではコンセプチュアルな商品のブランド価値が伝播し理解されるには、顧客の中にそのブランドの価値が知識構造化されなければなりません。しかし知識構造化するのは容易なことではないのです。この点を考えるヒントとして『認知心理学的なアプローチ』について考えてみたいと思います。
情報処理とはどのようなことでしょうか。例えていえば人間の心の中は、様々な情報に対して内容を参照するために『辞書』が用意されていると考えることができます。新たらしい情報が脳内に入ってくると、この脳内の辞書を参照して人間は情報を理解するのです。このとき脳内の辞書の内容が充実していればいるほど、また参照項目が多ければ多いほど情報は深く理解されて、新しく脳内の辞書に記録されます。『アトキンスとシフリンのモデル』は、人間の情報処理に関するモデルとして認知心理学の研究上大きな貢献をしたものです。
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アトキンスとシフリンのモデル |
『アトキンスとシフリンのモデル』では情報の保持時間、内容、忘却時間の違いから感覚登録器、短期記憶貯蔵庫、長期記憶貯蔵庫の3つの基本的な構成要素が想定されています。感覚登録器を通して外界からの情報は、まず短期的貯蔵庫に送られます。さらに短期的貯蔵庫から長期的貯蔵庫に送られた情報は、新しく脳内の辞書に登録されます。このプロセスの繰り返しが人間の理解のプロセスとなるのです(⇒知識構造化)。実際の情報処理レベルでのアプローチでは2つの貯蔵庫は想定されておらず、言葉の意味のように深い処理レベルの情報は、文字の形のような浅い処理レベルの情報より長く記憶保持する、というように、同じ貯蔵庫内での処理レベルの問題であると考えられています。
情報処理をモデルとして理解する上で、短期的貯蔵庫では『事実知識』もしくは『宣言的知識』に関する情報処理を行い、長期的貯蔵庫では『手続的知識』に関する情報処理を行なうと想定しています。すなわち短期的貯蔵庫では印象的な記憶、長期的貯蔵庫では理解的な記憶が登録されるのです。こうした情報処理モデルの前提に立って認知心理学で使用するキー概念として『スキーマ』と呼ばれる概念があります。これは人間がこれまでに得た経験・知識をどのような構造で貯えているかを考え表したものです。すなわち、それは言語的なコミュニケーションにおける知識構造の構築の問題です。
認知心理学上では基本的にはパーソナル・コンピュータなどで使用されるツリー構造(カテゴリー/サブカテゴリー構造)と、ネットワーク構造(ノード/リンク構造)などが提唱されています。これらの体系は、主に言語形式を取り、経験の保存構造を表しています。それは言語の受け取りの頻度と特異性によっても影響を受けるのです。スキーマを分り易く理解するためには、辞書の構造を思い浮かべるとよいでしょう。より正確にいうならば、索引機能のある百科事典的な辞書を想定する方がモデルを想定しやすいと思います。このような人間の記憶の構造と脳内の辞書の存在は、認知心理学における情報処理的なアプローチによってはじめて明らかにされた人間の心的機能です。そしてこれらの現象はすべて言語を媒介に確認されます。その意味で、それはコミュニケーション分野における重要な鍵を提示するものです。
むずかしい内容を持つハートランドというビールの5つの価値は、『事実知識』もしくは『宣言的知識』といった印象的な記憶だけでは、知識構造化されません。しかしながら前田さんが言っているように「商品の価値をお客さまと共有して共犯者にしてしまう」仕組みと仕掛けができるならば、知識構造化は容易に実現されるのです。大きなリーチ力を持つテレビに代表されるマス・コミュニケーションによる『事実知識』もしくは『宣言的知識』の形成ではなく、ブランド・ステートメント、ブランドの意味、ブランドの価値を伝えるための『手続的知識』の発信、共時的な価値を前提としたコミュニケーションよってこそ、このような意味性の強い、ある意味ではコンセプチュアルな商品のブランド価値は伝播し理解され、顧客の中にそのブランドの価値が知識構造化されるのです。
すでにお気づきの通り、それは『遷移定常理論』の、市場を生命系→人間系→情報系の有機的なモデルとして捉えなおす、という方法論と軌を一にする考え方です。それは従来の伝統的マーケティングの実証的因果法則の世界とは全く異なるアプローチです。人間は、常に様々な情報をキャッチしながら日々を生活しています。そのような情報をどのように処理しているかは、人間の心の働きそのものだといえるのです。認知心理学ではそうした人間の心の働きをコンピュータの機能と対比して考えるところに、時代的な先見性があります。この時代的な先見性をもった心理学上の方法論は『遷移定常理論』に合致するものであることはいうまでもありません。
このことにより従来『遷移定常理論』がマス・プロダクトのマーケティングには有効ではないという批判は克服されることになったのです。何故なら、インフォメーション・テクノロジーが開く広範なコミュニケーションの可能性が展望できると同時に『スモール・ワールド』や『スケールフリー・ネットトワーク』などの最新のネットワーク研究が『遷移定常理論』の論理的な根拠を提示しているからです。まさにコンピュータを基幹とするインフォメーション・テクノロジーの技術的発展が認知心理学の情報モデルという心理学的な分析モデルを有効にしていったように、認知心理学的アプローチとインフォメーション・テクノロジーの発展によるネットワーク理論の進化は『遷移定常理論』を新しいマーケティングのパラダイム構築の上で方法論的に有効ならしめたのです。
過去40年にわたってネットワーク理論の主流はランダム・ネットワーク理論によって支配されてきました。何故ならネットワークの象徴的なビジネスとしての通信事業が、ユニバーサルなネットワークを前提としてきたからです。ポール・エルディッシュとアルフレッド・レーニエによるランダム・ネットワーク理論はノードをランダムに接続することで、通信事業や生命科学にみられるネットワークを説明するモデルをつくりあげたのです。こうして複雑なネットワークは長い間に渡って完全にランダムであるとみなされてきたのです。しかし近年、自己組織化を推進するユニークなネットワークはスケールフリー・ネットワークのロジックに支配されていることがアルバート=ラズロ・バラバシ博士(米:ノートルダム大学物理学教授)によって証明されました。現実の自己組織的なネットワークはランダムではなかったのです。
ランダム・ネットワーク理論は、点と線からなる図形の性質を解析する数学理論で、情報工学や経営工学などの基礎理論となったグラフ理論に新たな活力を吹き込むことになり、現代マーケティングの理論にも大きな影響を与えました。ランダム・ネットワークは米国の幹線道路網に似ており(図参照)、ランダムに接続されたノード(道路の分岐点・合流点にあたる)でできています。こうしたシステムの場合、ノードごとのリンク数は釣鐘型の曲線状の分布(ポアソン分布)になり、大部分のリンク数はほぼ同じになるユニバーサルなネットワークを構成します。
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アルバート=ラズロ・バラバシ著『新ネットワーク思考』NHK出版より |
社会的なネットワークや細胞の代謝系、そしてインターネットなど自己組織化するネットワークは多数のノードとつながった比較的少ないノードに支配されていることが、検索ロボットによるインターネットの膨大なサーチ作業により発見されました。こうした重要なノードは『ハブ』と呼ばれ、それらを含んだネットワークは『スケールフリー』になる傾向があります。一部の『ハブ』は一見したところ無数のつながりをもち、どのノードもユニークです。この点で、こうしたネットワークはスケール(尺度)が存在しない(フリー)ネットワークということができます。スケールフリー・ネットワークは米国の航空路線網に似ています(図参照)。ハブとなる空港が存在し、代表的なハブは数多くのノードとリンクしています。この種のネットワークはベキ法則にしたがっており、リンクの分布を両対数目盛上に描くと直線になるのが特徴である、ユニークなネットワークを構成します。
ベキ法則とは、ある変数Xがxよりも小さな値をとる確率(つまり累積確立分布関数)を導き、それを微分すると、Xがxに等しい値をとる確立密度関数が、xとx+kの間の反比例関係として捉えられることをいいます。簡単にいえば80対20の法則として知られるパレートの法則、ある変数Xがx以上の値をとる確立がxk に反比例するという法則の逆であると考えれば理解しやすいと思います。ベキ法則にしたがう系の度数分布にはピークは現われず、現実のネットワークには系を特徴づけるような平均的ノードは存在しません。この場合、ノードのヒエラルキーはなめらかに移行し、希少な存在であるハブから、ありふれた小さなノードまで広がっていきます(⇒ロング・テール)。
スケールフリー・ネットワーク理論の登場によって、わたし達をとりまく複雑に絡み合ったネットワークに関する従来の知識は一変しました。様々な種類の複雑なシステムが基本構造を持ち、基本原則に従っていることが自己組織化するネットワークにおける『ハブ』の存在によって示されたのです。細胞やコンピュータ、言語体系、社会組織、市場原理などの自己組織化するネットワークにおける様々な有機的現象は、これまでのランダム・ネットワーク理論では説明できなかったことなのです。自然界には様々なランダムなネットワークが存在します。こうしたユニバーサルなネットワークの対抗軸として、自らがハブを形成し、自己組織化へと向かうスケールフリーなネットワークは、選択的集中を自主的に行うことによって、新しいネットワークの形成へ向けて、現実的なビジョンを意思的に提示することができるということが分かって来たのです。そのひとつがマーケティングにおける『市場』であり、その市場におけるコミュニケーションのメカニズムです。
さらにスケールフリーなネットワークは、いわゆるロングテールの存在を明らかにし、AMAZONなどのeコマースのメカニズムを明らかにし、ビジネスにおける新たなアプローチの可能性を提示しました。しかし、ベキ法則と優先的選択により生じるハブは、あるノードがリンクを独占することにより『金持ちはより金持ちに』なるという現象の発生も明らかにしました。それは既に多くのリンクを獲得しているノードが、新入りのノードを犠牲にして不当なほど多くのリンクを獲得するメカニズムです。ITビジネスにおけるダントツのNO1現象は、このスケールフリー・ネットワークのメカニズムの解明により実証されたのです。
自己組織化へと向かうスケールフリー・ネットワークとともに、今日大きな注目を浴びているのがスモール・ワールドというネットワークの概念です。よくわたし達は『世間は狭いねえ』などと申しますし、実際にそう感じることもしばしばです。だれもがひとつやふたつ、「友達の友達は友達だった」というような経験をした記憶があるのではないでしょうか。『スモール・ワールド』は、将にこうした『狭い世間』を創り出しているネットワークの作用を解明する理論です。
この概念に最初のアプローチを行なったのは、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムであるといわれています。ミルグラムは、ボストン在住のAさんという人に向けて、ボストン市内やアメリカの様々な箇所から手紙を出してもらい、その結果がどうなるかという実験を行ないました。Aさんについてはあらかじめその人となりが紹介されていますが、彼の住所や、それを想定できる情報は与えられません。そして、Aさんに向けて最初に手紙を出す人びとは、Aさんを全く知らない人々です。手紙をAさんに向けて出し、届ける人々にもある条件がつけられています。その条件は、手紙を渡す人はファーストネームで呼び合う関係であるが、特別親しい人ではないというものです。
細かい経緯は省きますが、この実験は驚くべき結果をもたらしました。Aさんに届いたほとんどの手紙は、6人か7人の人の手を経てAさんに届いていたのです。広いアメリカ合衆国においてたった6人か7人の人です。その結果『6次の法則』という言葉が生まれました。簡単に言うと世間の人々は6次の隔たりでつながっているということです。それゆえ『スモール・ワールド』と呼ばれることになりました。それは1960年のことでした。このミルグラムの実験は、その方法や条件設定および状況など細かい点については様々な問題を内包しています。しかし、結果からスモール・ワールド的なものが存在することは疑いの余地はありません。その後、スモール・ワールドについては様々な実験が繰り返され、ついに1998年ダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツにより、スモール・ワールドのなぞは解明され、その数学的な構造が発表されたため、世界的なセンセーションを巻き起こしました。典型的なスモール・ワールド・ネットワークは、近接するノードをつなぐリンクと、少数のショートカットリンクが混在したものです。このショートカットは、社会学でいう「ブリッジ」「弱い紐帯」に相当すると考えられます。
このダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツによるグラフ理論の革新は、何世紀にも渡って科学技術の方法論を支配してきた還元主義に終焉を告げるものです。自然をばらばらに分解し、そのひとつひとつのパーツについての内容を明らかにすることで分析的な成果を挙げてきた還元主義という方法論では、一定のプロセスから先については全く解答不能の状況をもたらします。例えば、非常に身近な誰でも知っている現象としての氷結などの相転移についても、還元主義は無力です。突然発生するこの状態の変化には、分子そのものの変化は全く伴っていないのです。
相転移とは、化学的、物理的に均一な物質の部分である相が、他の形態の相へ転移することの、熱力学あるいは統計力学上の概念です。また、それらを発生機構とする物理現象の総称でもあります。相転移の発生は特定の原因に由来せず、原子あるいは分子間の相互作用を初めとし、結晶構造や局所構造、あるいは磁場や温度・エネルギー分布など、場合に応じて複数の要素が複合的に作用して発生する現象であって、分子間相互作用のネットワークが形成する繊細な組織構造が変わることで発生します。
生態系や経済動向と同じようにマーケティングにおける市場構造や、ブランド・リピュテーションの形成、商品の販売動向などにも同じような特徴が見られます。還元主義的な発想に立って、生態系における個々の種や経済活動における個々の企業の分析、市場動向や顧客構造の分析的な把握などのデータがどれだけあっても、現実に集団としてある作用を生み出しているネットワーク構造がわからなければ、現実に起きている現象(たとえば相転移)を説明することは出来ないのです。
スモール・ワールドについて考えるとき、忘れてはならない業績があります。それは社会学者マーク・グラノヴェッターによる『弱い結びつきの力』の発見です。スモール・ワールドという現象を考えるとき、人々はどうしても強い人々のつながりについて、より大きな効力を想定しがちです。しかし、グラノヴェッターによれば、特に親しい特別な関係より、むしろ普通のありふれた関係を通して伝播される情報の方がより価値の高い情報であるというのです。グラノヴェッターは企業と労働者のジョブ・マッチングに関する調査の結果『弱いじん帯の強さ(Strength of weak ties)』という作用を発見し、実証しました。
グラノヴェッターは、弱いじん帯は、強いクラスター・グループ同士をつなげるジョイントの役目を果たしていて、情報が広く伝播していくために、または価値ある情報が伝播していくために重要な役割を果たしていると述べています。強い関係によって構成されている集団(ネットワーク)は構成員の類似性が高く、共通の話題、共通の興味のみを重視する傾向があります。こうしたネットワークの中では、強い求心力が働き、重要な情報であっても自分たちの関心に適合しない情報は充分に把握されないか、把握されたとしても充分に咀嚼されずに忘れ去られてしまう傾向があります(⇒VIPクラブ現象)。
こうした強い関係性をもったネットワークは共通の関心や、関心を呼ぶ価値にのみ注意が集中しているため情報的に孤立する傾向があります。こうした状況の中で弱いじん帯は、強いネットワーク間を連携する働きをします。情報が広く伝播していくためには、このような強いネットワーク同士をつなぐ弱いじん帯が必要だというわけです。
このような問題は、閾値グラフとモノフィニーおよびネット上のVIPクラブ現象という視点からも検証できます。閾値グラフとは、特定のノード間にリンクが可能か不可能かを決定する閾値が存在するネットワークを指しています。閾値グラフの考え方では、閾値を満たす可能性が高いノードほど、多くのリンクを引き込む可能性が高くなるのです。これは『優先的選択』や『べき乗則』につながるものです。
一方、ネットワーク科学の分野ではホモフィリー(同質結合傾向)という現象があります。ホモフィリーは、ネットワーク内で性質が近いもの同士が結びつきやすいという傾向を指す言葉です。人間のネットワークを考えた場合でも、同じ趣味や興味をもった人が結びつきやすかったり、同じような仕事をしている人と話がしやすかったりといったホモフィリー型のネットワークが生まれやすい傾向があります。ネットワーク理論ではこうした現象を『クラスター性』という概念で捉えています。強いじん帯によるネットワークの結合は『クラスター性』によって構築されているのです。
こうした閾値グラフとホモフィリーという考え方を導入すると、VIPクラブ現象というネットワークの特性にたどり着くことができます。VIP(=エリート)たち同士は密に枝をはりめぐらしてVIPクラブを作りますが、一般大衆からは見えなくなっている。VIP達と一般大衆は性質が違いすぎて、接触が持てないのです。ネットワーク科学の分野では、ネットワークがこうした傾向をみせることをVIPクラブ現象と呼んでいます。このVIPクラブ現象については増田直紀、今野紀雄『複雑ネットワークとは何か』に詳しい説明があります。実はネットワークを介した情報の伝播を考えるとき、今日注目されている、スーパー・スプレッダーやカリスマ的なブロガー(アルファー・ブロガー)などの存在より、グラノヴェッターの『弱いじん帯の強さ(Strength of weak ties)』という作用と『クラスター性』の関係の方が、重要な役割を担っているのです。
グラノヴェッターの『弱いじん帯』によって伝播される情報や知識が、その受け手にとって高い価値を持っているのは何故でしょう。ここで井上哲浩教授による、ソサイアタル性の説明を見てみましょう。
『Societal』とは、日本語に訳すと『社会性』となりますが、Socialの概念に環境やメンバーシップという要素が加わったものであると考えてください。例えば、中国の長江の水質汚染が深刻で水量も減っているという問題があったときに、それ自体はSocial issueであるが、『それによって○○省××村の生活手段が失われている』『大変な目にあっている』となると、Societalになる。そのメンバーやコミュニティーの問題となってくる。メンバーや組織、社会的な組織やそれらとの関連性が加わってきたのが『ソサイアタル性』の概念です。
『弱いじん帯』によって伝播されるすべての情報や知識が、その受け手にとって高い価値を持っているわけではありません。その情報や知識が『ソサイアタル性』を持っているときに、その情報や知識は、その受け手にとって高い価値を認識させ伝播していくと考えることができます。もちろん価値のない情報や知識、また価値がある情報や知識でも、極端に個別的なもの、特殊なものは、ネットワークに伝播せず捨て去られていきます。ソサイアタル性が高いということは、単に価値ある情報や知識であるというだけではなく、社会関係性あるいは社会的共感性の強い、ネットワークに普遍的な価値を持っている情報であることが必要なわけです。
こうしてみると『クラスター性』の高いネットワーク同士をつないでいるのは、『ソサイアタル性』の高い情報や知識であることがわかります。すなわち、スモール・ワールドは強い『クラスター性』を持ったネットワーク同士をつなぐ弱いじん帯を通しての『ソサイアタル性』の高い情報や知識の伝播、『ソサイアタル・コミュニケーション』によって成立していることがわかります。スモール・ワールドにおいては、『クラスター性』と『ソサイアタル性』が重要な構成要件であるわけです。
以上の考察を経て私が『ハートランド・プロジェクト』を通して体験し、考えてきた『遷移定常理論』というネットワーク理論は、今日的にはスケール・フリーなネットワークによって形成されたスモール・ワールドにおける、ソサイアタルなコミュニケーションの仕組みと仕掛けであったことがわかります。こうしてみるとハートランド・ビールは、サスティナブルなブランドの構成要件を多く持っていたということが出来るでしょう。
わたし達は今、最新のネットワーク理論を通して、更に複雑化するビジネス・シーンにおける企業のコミュニケーションのありかたについて、重要な示唆を得たと思います。それは個々の企業組織についても、否、企業体だけではない、ひとつのコミュニティーを形成する組織についても、市場というひとつのネットワークにおいても、そのサスティナブルなありかたの非常に重要な作用として、ソサイアタルなコミュニケーションが必要であることを認識したわけです。そして『クラスター性』と『ソサイアタル性』という要件は、マーケティングの新たなパラダイムを構成する要件として、重要度の高い概念であると考えることが出来ると思います。『ソサイアタル・コミュニケーション』それは次世代のマーケティングを切り開く、キーワードであると考えられるのです。
発売当時のハートランドビール(1986年) |
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ビアホール“ハートランド”「穴倉」と「つた館」 |
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写真提供:キリンビール株式会社 |